今日の森の色

  1. 01. 「ニホンリスのメロウ® Theプロジェクトfrom軽井沢」が発足しました

    中丸一沙は、フォトエッセイ「ニホンリスのメロウ 軽井沢Kazusaの森の物語」の刊行以来、
    軽井沢生まれの「ニホンリスのメロウ®」を親善大使とかかげ、
    ニホンリスと森の保護育成のための啓蒙活動の一環として
    パネル展や講演会などを各地で行ってきていますが、
    このたび、仲間たちの力強い協力を得て、
    「ニホンリスのメロウ® Theプロジェクトfrom軽井沢」を立ち上げることになりました。

    ■キャッチワード:
    知ることは守ること

    ■趣旨:
    340万年もの歴史をもつ日本固有の大切な在来種であるニホンリスは「美しい村」軽井沢の町獣です。そのニホンリスが年々数を減らしています。樹上性のいきものであるニホンリスは森のシンボルです。つまりニホンリスが減っているということは豊かな森が減っているということです。これらのニホンリスを守るということは豊かな森を保護育成することであり、それはわたしたち人間の未来をも明るくすることです。しかも、ニホンリスが増えるとその下位層の野ネズミ(アカネズミやヒメネズミ)や小さな野鳥たちが増え、それによって天敵のキツネやテンや猛禽類が増え、森の生態系のボトムアップが実現されます。このことからニホンリスは森のキーアニマルであるといえます。そのニホンリスをこれ以上減らしていかないためには、針葉樹だけでなく、種々の広葉樹に覆われた豊かな森を保護育成していかねばなりません。そうすると今度はニホンリスや野鳥やクマなどの動物が木の実を媒体にして森をつくっていってくれます。ことにニホンリスは貯食という形で直接実を地中に埋めるのでダブル効果で森がつくられていきます。森が元気だと海も豊かになります。また、広葉樹の神秘的なメカニズムで冷却効果も得られ、人間にとっても大きな恩恵をもたらしてくれます。わたしたちは、自然保護活動の大原則「知ることは守ること」に則って、ニホンリスのメロウⓇを親善大使とする種々の啓蒙活動を行っていくことで、こういった森のいのちの連鎖を広く訴え、次世代、次々世代へ美しい森とその中で育まれるいのちを残していきたいと思っています。

    ■構想:
    フォトエッセイ『ニホンリスのメロウ 軽井沢Kazusaの森の物語』(著者:中丸一沙/発行:求龍堂)を核に、その主人公のメロウを親善大使とし、以下の5本柱を主軸として展開していくプロジェクト。

    1. 中丸一沙のフォトエッセイ『ニホンリスのメロウ 軽井沢Kazusaの森の物語』のパネル展、講演会、レクチャーなどを介しての啓蒙推進

    2. 作家中丸一沙としての著作活動を介しての啓蒙推進
    ⇒ メロウシリーズの展開、翻訳化の実現、リスの物語りの読み聞かせ、メロウの公式サイトやブログなどからの情報発信

    3. 海外の野生動物保護団体などとの連携による啓蒙促進
    ⇒ USAのCAの野生動物保護団体や、ノルウェーの高校生が授業の一環として展開しているプロジェクトなどとのリンク

    4. ニホンリスの森づくり
    ・「メロウの森基金」の設立(講演会やパネル展その他各種イベントなどでの募金活動、メロウグッズの販売などで森づくりのファンドをつくっていく)
    ・オニグルミの苗やニホンハシバミの実の譲渡会やオニグルミの植樹会などを開催
    ・ニホンリスがやってこられるような庭や森づくりのカウンセリング

    5. メロウのキャラクターグッズの展開によるニホンリスへの関心づけと利益還元
    ⇒ 森づくりのファンドをつくっていくと同時に、この啓蒙活動を支援してメロウに関わった方々自身も少しずつ潤っていただけるような幸せの循環をめざすことが目的
    ・ライセンシー募集
    (このグッズは4番の「メロウの森基金」への寄付金付きチャリティーグッズとなるもので、制作販売を希望する業者は、商標と著作権使用に関してライセンサーの伊藤幸子とライセンシー契約を結ぶ必要がある。その際に寄付についても明記。)
    ・自主制作販売(募金活動の一環としての手作り活動)

  2. 02. 鳥の災難

    昨日の朝、シメが1羽、バーンという大きな音をたてて、
    テラスドアのガラスに激突して落下しました。
    いままでも何回かありました。
    即死が2回。
    手にとったとたんに元気よく飛び立っていったのが1回。
    でも今回は脳震盪を起こして失神しているのでしょうか。
    見るとまだ息をしています。
    こりゃほっとけぬ……。
    あわてて手袋を探しに走りました。

    こういうとき、
    細菌や寄生虫などをもらわないためにも、
    反対に人間の臭いをつけないためにも、
    素手で触るのはNGです。
    手袋をはめなければなりません。

    作業用のゴム手袋を引っ張り出したわたしは、
    それをはめるのももどかしく、
    テラスドアを開けて外に出ると、
    まだピクピクと痙攣しつづけているシメを、
    両手で掬うようにしてそっと抱き上げてやりました。

    すると、そのシメさん、
    ギャッと驚いたような声を上げて覚醒したかと思うと、
    足の爪を立てて必死に手袋にしがみついてきます。
    でも、飛び立とうとする意欲はなさそうで、
    もがきもしなければ、逃がれようともせず、
    半分目を閉じてじーっとしています。
    あの分厚くて鋭い嘴も堅く閉じたままです。
    大きく荒い息をしながら。
    目のふちについている木屑を拭ってやっても、
    されるがまま……。

    以前、冬場に野鳥が窓ガラスに激突して失神したら、
    すぐに温めてあげないと凍死してしまうよ、
    という話をきいていたので、
    外は寒かろう、と、家の中に入り、
    薪ストーブの前でそっと両手で包みこむようにしても、
    依然、じーっとしたまま。
    薪ストーブで手を温めて、
    頑張れ、頑張れ、と唱えながら、
    何度も背中を撫でてやるのですが、
    あまり反応がありません。
    こんなに小さな体だもの、やっぱり助からないのかなあ……。
    あきらめに似た気持ちが湧きあがってきます。
    それでも、
    柔らかくて温かい体の感触が手の平に伝わってきたとき、
    ああ、このいのち、まだ生きているんだなあ……。
    助けられるものならば、生かしてあげたいなあ……。
    切なる思いがこみあげてきます。

    10分くらいそうしていたでしょうか。
    脳震盪が治まってきたのか、
    目を開いては閉じ、
    閉じては開き、を繰り返しながら、
    やっとあのシメ独特の大きな目がパッチリと開きました。
    そして、2本の足でしっかりと立ってくれました。
    もう大丈夫だろうか……。
    まだまだ胸で大きく息をしているし、
    しばらく家の中で温めてやったほうがいいだろうか……。
    いやいや、
    やはりすぐに飛び立てるところに置いたほうがいいのではないだろうか……。
    迷いながらも、思い切って、外に出すことにしました。
    飛び立ちやすいようにと、
    テラスドアを出たすぐのところにある棚の上に置いてやりました。
    そこだと、中からもよく見えるので、
    万が一、ネコやカラスがきても追い払えます。
    屋根もついているし、雪が落ちてくることもありません。

    でも……、
    30分経っても、45分経っても、
    荒い息をしながらじーっと座りこんだままです。
    体も少しずつ沈んでゆきます。
    どうしよう……。
    このままこの子は死んでしまうのかな……。
    内臓破裂や脳損傷とか起こしているのかな……。

    獣医さんに尋ねても、
    そのままにしておくように、とのこと。
    一度保護してしまうと、人間の臭いがついて、
    野生に戻ったときに、
    仲間たちから嫌われたり、
    他の動物を引き寄せたりするとか。
    それに法律によって、野鳥の保護は禁止されているとか。
    でも、それは飼育目的の場合だと思うのですが……。

    うーん、どうしたものか。
    ここでちょっと手を加えてあげることで、
    助かるいのちならば、何とかしてあげたい……。
    自然淘汰とか、自然の摂理とか、
    そういったものはその後でもいいではないか……。

    悩みつつ、1時間ほどしてもう一度、
    傍にいって様子をみようとテラスドアのノブに手をかけたときでした。
    何と、そのわたしの気配を察したかのように、
    キリリっと胸を張ると、
    バサバサっと翼を広げて、
    自力で飛び立っていってくれたではないですか。

    生命力の強い子だったんですね。
    感動しました。
    その逞しい生命力があれば大丈夫。
    春になったら、きっと元気に、
    仲間たちと一緒にシベリアへ渡っていってくれるでしょう。

    小さないのち。
    この雪に覆われた軽井沢で、
    必死になって生き抜こうとしている小さないのち。
    ここにもあそこにもいっぱい……。
    そのいのちのもつ感動をもらって、
    しばらくわたしも元気で過ごせそうです。

    【参考】野鳥が窓ガラスに激突するケースは多く見られます。
    昨日、fbでみんなにアドバイスを求めたところ、
    早速、友人が、こういうときのお役立ちサイトを見つけてくれました。
    ちょっとした工夫や介助で助かるいのち、たくさんあります。
    参考にしていただければと思います。
    公益財団法人日本鳥類保護連盟
    「ガラスに激突する鳥たち」
    http://www.jspb.org/mado/mado.html

  3. 03. 野鳥たちの聖戦

    軽井沢の冬は厳寒。
    氷点下十数度まで下がることもめずらしくありません。
    そんな寒さですから、一度雪が積もると、
    それは根雪となって、
    ことに我が森の底は、
    春の暖かい陽射しが届くようになるまで、
    真っ白いままになります。

    そんな厳しい冬の間だけ、
    いのちをつなぐお手伝いをしようと、
    虫が死に絶え、木の実がすべて落ちてしまった頃から、
    我が家は数種類のバードフィーダーを設置します。
    小粒のヒマワリの種が入ったもの。
    大粒のヒマワリの種が入ったもの。
    手作りのバードケーキを入れたもの。
    そして、無塩無油の生のアーモンドと牛脂も、
    少しだけ置いてあげます。
    どうしてそんなに……、と思われるかもしれませんが、
    一冬、ここに訪れてくる野鳥たちをずーっと観察してみて、
    種類によって好みが違うことに気づいたからです。

    アカゲラはヒマワリの種には見向きもしません。
    ヤマガラやシジュウカラは、
    ヒマワリの種も食べることは食べますが、
    それよりも硬いアーモンドが大好きです。
    シジュウカラなどは、牛脂も大好物。
    カワラヒワやシメは、やはり種子が好きなようで、
    まずはヒマワリの種をつつきます。

    また、複数のフィーダーを用意しているのには、
    弱いものが食い逸れのないようにするため、
    という理由もあります。
    野鳥の間には、
    体の大小で決まる力関係が厳然と存在しています。
    それはまた同時に、
    大きい子と小さい子の行動の特性を生みだします。
    つまり、大きい子は器用さに欠けるため、
    フィーダーの形状によっては、近づけないものもあるということです。
    そういった習性や嗜好などを考えあわせて、
    我が家では試しにいろいろと置いているわけです。

    さてその力関係ですが、
    これは、体躯の大きさだけでなく、
    野鳥の次のような種類によっても大きく異なります。

    野鳥は、大きく、
    留鳥と渡り鳥と漂鳥の3種類に分けられます。
    (本当はもっと細かく分類されているようですが……。)
    留鳥とは、通年そこに生息している地元の鳥のことで、
    我が家ではジモバーと呼んでいます。
    さしずめ、この森では、
    アカゲラ、ヤマガラ、シジュウカラ、ゴジュウカラ、コガラ、
    キジバトなどが、代表的なジモバーたちです。
    渡り鳥は、
    夏に飛来する夏鳥と、
    冬に飛来する冬鳥がいますが、
    この森にやってくる冬鳥には、
    シメ、アトリ、ミヤマホオジロなどがいます。
    もうひとつの漂鳥というのは、
    冬になるとシベリアから渡ってくる渡り鳥とは違って、
    同じ軽井沢の中の平野部から山地へ、と、
    季節に応じて狭い範囲で移動する鳥のことです。
    冬になるとこの森へ移動してくる漂鳥には、
    カワラヒワやイカル、ヒヨドリなどがいます。

    雪が舞いはじめる頃までは、
    この森はジモバーたちの天国です。
    孤高の鳥であるアカゲラは別格として、
    ヤマガラもシジュウカラもゴジュウカラも、みんな伸び伸びと、
    お行儀よく順番を待ちながら、
    フィーダーの中の餌をつつきます。
    それが、雪が舞いはじめて、
    カワラヒワがやってくるようになると、
    様子が一変します。
    カワラヒワは群れをなしてやってくるので、
    彼らが飛来するようになると、ジモバーたちの居場所がなくなるのです。
    それでなくても、気性の激しいカワラヒワたち。
    ちょっとでも近寄ろうものならば、
    すごい形相で追い払われてしまいます。
    ジモバーたちは、ちょっと離れた樹木の枝に止まって、
    じーっとフィーダーが空くのを待つしかありません。
    そこでハンギング型のフィーダーや、
    アーモンドや牛脂の出番となります。

    さあ、そのカワラヒワよりも激しいのはシメです。
    このシメも、単独で飛来する間はお行儀がよいのですが、
    冬が深まり群れでやってくるようになると、
    壮絶な食物争奪戦が繰り広げられるようになります。
    そしてその争奪戦は、
    春になり、シベリアへと渡ってゆく時期が近づくにつれて
    さらに熾烈さを増します。
    それは、長い過酷な渡りに備えて、
    体脂肪をたっぷりと蓄えておかなくてはならないからです。
    ときにはキジバトでさえ、追い払ってしまうほどの激しさで、
    シメたちは必死になって餌をついばみます。

    このように、野鳥たちがフィーダーを占有する優先順位は、
    その種類と体躯の大きさで決まるわけですが、
    もうひとつ、野鳥の世界では、面白い、
    いえいえ、
    彼らにとっては非常にシリアスな戦いが展開されます。
    それは子孫を残すための戦いです。
    毎日見ていると、ほかの種類の鳥とだけではなく、
    同じ仲間同士で餌を奪い合っている野鳥たちの姿をよく目にします。
    場合によっては、他の種類の鳥よりも、
    同じ仲間を厳しく威嚇する方が多いほどです。
    カワラヒワはカワラヒワに、シメはシメに……。
    ヤマガラもしかり、シジュウカラもしかり、です。
    要は、平和な時期はみんなで仲良く、
    タイムシェアリングでフィーダーを共有できても、
    餌場が混み合ってくると、
    仲間の接近は許せなくなるのです。

    ……といっても、仲良くついばむ相手もいます。
    それはきっと異性の仲間だからでしょう。
    戦いを挑んでいるのはおそらくオス……。
    わたしはそうにらんでいます。
    自分のDNAを残してもらうために、
    メスは大切にしなくてはならないけれども、
    同じオスは邪魔になる……。
    自分のDNAを残すためには、
    他のオスを押しのけてでも生き抜かねばならない……。
    これは、憐れなるかな、
    神から仰せつかった、
    子孫を残すという使命を果たすための彼らの聖戦なのです。

    スタンダードジャズの名曲「As Time Goes By」の歌詞の中に、
    It’s still the same old story
    A fight for love and glory
    A case of do or die
    というくだりがあります。
    訳すと、
    「いつの時代にも存在する物語
    愛と栄光のための戦い
    生きるか死ぬかのせめぎあい」
    になるでしょうか。

    なんとなく野鳥の世界にも通じるものがあるなあ、
    と、最近、これを歌っていて思うわたしです。

  4. 04. 白い森

    森に雪が舞う季節となりました
    最初は、ひとひら、ひとひらと
    それはまるで、さくらの花びらが舞うがごとくに
    薄墨色の雲から舞い落ちてきます
    だれにも気づかれないように
    静かに
    ひそやかに
    しかし次第に勢いを増しながら
    それはまるで、絵筆を重ねるがごとくに
    森の底を白く染めてゆきます
    もはやだれの目もごまかすことなどできずに
    もはや止まることなど知らぬといわんばかりに
    刻一刻と雪は深まり
    あるとき
    森の何もかもが巻きこまれてゆく一瞬がやってきます
    裸木に眠る冬芽の寝息も
    野鳥の囀る声さえも
    雪の降る音にかき消され
    しいーんと
    森には雪の降る音だけが響きわたります
    そうして森は
    雪の魔法のなすがままに
    いつの間にか白く煙り
    そこには幻想の世界がぽっかりと口を開けるのです
    雪は白い精霊たちの化身
    彼らは
    蒼氷の女王と戦うために
    やがて風を味方につけます
    そしてその風に煽られながら
    森の中を舞い狂って
    樹木に白い鎧を着せてゆきます
    それは白い森の哨兵たち
    彼らは
    天に向かって伸ばした無数の腕を
    それぞれに絡め合いながら
    森を白銀の砦と化してゆきます
    蒼氷の世界でいのちをまもるために
    そう、それは
    雪の温もりで
    いのちを包みこむために築かれた砦なのです
    すべてのいのちは
    この砦で
    厳寒に抗うべく
    雪の魔法で編まれた白いヴェールを纏って
    そのいのちをつないでゆくのです
    ほら、あそこでは
    宿根草たちがやっと安心して眠りにつきました
    ほら、あそこでは
    野ウサギがねぐらにしようと穴を掘っています
    はらりはらり
    今日もまた雪が舞いはじめました
    こうやって
    この魔法は解けることなく
    これからの長い冬の間中ずっと
    森の小さないのちたちをまもってゆくのです
    春という名の陽射しが森の底に届くまで……

  5. 05. 落葉のあと

    秋が去ってゆきました。
    まるで木枯らしに急かされるかのように……。
    ついこの間まで、窓という窓はすべてオレンジ色に輝いて
    部屋の中までほんのりと紅く染まっていたのに……。

    いま、Kazusaの森は、
    静謐な気に溢れた裸木の森になりつつあります。
    毎日、風が渡るたびに、
    これでもか、これでもか、と色づいた葉がふるい落とされ、
    いまでは大地がすっかり枯葉色に染まって、
    森の底が明るくなりました。
    わずかに残っているナラやクリの葉も、
    はらり、はらりと絶え間なく舞い落ちてゆきます。
    冬の訪れを告げるかのように……。

    こうして木々たちは、いのちをつなぐために、
    惜しみなく葉を落として、
    長い冬を越す準備に勤しんでいます。
    クマがたくさん食べて
    体脂肪を蓄えてから冬眠に入るように、
    樹木もこうして冬に備えるのです。

    寒くなると根元から水分を吸い上げなくなるために、
    葉が枯れて落ちてしまうのですが、
    これは日照時間が短くなって光合成の力が弱まってくるからです。
    そうすると葉を緑色に見せるクロロフィルも生成されなくなり、
    葉の色が変わります。これが紅葉(黄葉)です。
    また、わずかな水分を維持するためには、
    水分が蒸発しやすい葉がないほうがいいに決まっています。
    だから競い合うようにして葉を落とします。これが落葉です。
    紅葉(黄葉)は、
    色素の関係で黄色の葉になって落葉するものと、紅くなって落葉するもの、茶色で落葉するもの、とがあるようです。
    いろいろと難しいことは専門書に任せましょう。
    ただ、知れば知るほど、
    自然のいのちの仕組みにはびっくりさせられます。
    こんな仕組み、誰がつくりあげたのでしょう。

    こうして葉はなくなっても、
    もちろん、木そのものが枯れたわけではありません。
    その証拠に、
    葉を落として裸木になったモミジやドウダンツツジなど、
    よくみるとすでに芽が出ています。
    これは休眠(越冬)芽で、
    冬芽(とうが、ふゆめ)と呼ばれるものです。
    来春に花になったり葉になったりする芽で、
    夏ごろからすでにつくられるものだそうです。
    ただ落葉樹によっては、
    樹皮の中に埋もれているものもあるので、
    すべてがすべて外に頭を出しているとは限らないようです。

    このように、すべてが眠ったように見える裸木の森ですが、
    木々の1本1本は生きていて、
    春になるとそのいのちを一斉に萌え出させるために、
    エネルギーをしっかり蓄えているのです。
    そう思うと、
    裸木が逞しく、かつ頼もしく見えてきます。

    夏の、あの青々とした葉をたっぷりと蓄えた
    エネルギッシュな木もいいですが、
    わたしは裸木が好きです。
    美しいと思います。
    饒舌さとは縁のない寡黙なあの姿、
    装飾も何もない、
    ありのままを剥き出しにしたあの姿は、
    余分なものを削ぎ落とした美しい名文のようです。
    シンプルな素の姿ほどより多くのものを語り、
    言葉は少ないほど、より多くの感動を呼びます。

    人間も、背伸びをせず、相対的な価値観に振り回されず、
    ありのままの等身大の自分を大切にしながら生きること。
    それが一番素晴らしいことなのかもしれません。

  6. 06. 母と子

    野生動物の世界での母親の存在は絶大です。
    先日、ブログ「軽井沢の森を守るために(ピッキオの活動報告)」で、何らかのアクシデントが起こって母グマとはぐれてしまったプリンセスという子グマの死を取り上げました。
    生後間もない子グマをプリンスエリアで保護し、発信器をつけて森に放したところ、「クマ(雄グマ)の子殺し」に遭って死んでしまったという話ですが、実は、今年の5月にもこれと同じようなことが起こりました。

    場所は同じプリンスの施設内。
    でも、今回は72ゴルフの中でした。
    夕方、造園業者のひとたちがコースの整備をしていたところに、子グマが、まるで何かから逃れるかのように必死で走り寄ってきたというのです。
    見ると、まだ母乳を飲んでいると思しき小さな赤ちゃんグマ。
    さあ大変です。
    万が一近くに母グマがいたら、と、みんな恐れおののいて辺りを見回したそうです。
    でも、その気配はまるでありません。
    今度は、これは困った、と、早速ピッキオにSOSを送りました。
    依頼を受けてやってきたピッキオは、すぐに、母グマが探しにやってくる可能性もあるだろう、と判断して、保護した場所にケージを置き、その中に子グマを入れてしばらく様子をみることにしたそうです。
    でも、やはり母グマに何かがあったのでしょう。とうとう姿を見せませんでした。
    前回の子グマは雌だったのでプリンセスという名前を付けました。
    が、今回は雄だったために、ピッキオはその子グマにプリンスと命名し、いつものように発信器をつけて森に放してやりました。
    でも、今回も残念なことに、早くも4日目には発信器の位置が動かなくなってしまったそうです。
    死因は餓死でした。
    まだ自力で木に登ることもできなければ、餌をとることも知らなかった赤ちゃんです。
    生き延びることは難しかったとはいえ、何とも切ない結果になってしまいました。

    この2つの実例からもわかるように、
    野生動物の世界では、母親がいないとほとんどの場合、子どもは生きてゆけません。
    生まれてから自立するまでの短い間に、子どもは母親から生きてゆく術(すべ)をすべて教わります。
    野鳥は、父親と母親が役割分担をしてヒナを育ててゆくようですが、動物の世界では、父親も子育てを手伝うオオカミを除いて、ライオンやトラやサルやシカなど、ほとんどといっていいほど、母親だけが子育てを行います。
    軽井沢のツキノワグマやニホンリスも例外ではありません。
    クマは平均して1年半ほど、リスは4ヶ月ほどの間に、母親から何もかも学んでから親離れをするのです。
    生まれた直後から本能的に木の上り下りができるというものではありません。
    しばらくの間、母親が手で支えたり口に銜えたりしながら補佐することで徐々に教え込んでゆくのです。
    餌だってそうです。
    何をどうやって食べたらいいのか、どこに何があるのか、などなど、すべて母親から教わるのです。

    もうひとつ、軽井沢に移り住むようになって、毎日、ずーっとリスを眺めていて、面白いことに気づきました。
    子リスの嗜好や行動パターンはその母リスとまったく同じだ、ということです。
    リスには「貯食」という習性があります。
    人間でいう保存食みたいなものでしょうか。いつ食べ物がなくなっても困らないように、クルミやハシバミなどを土の中や樹洞や木の枝股などに埋めたり突っ込んだりする行為です。
    見ていると、リスには、まず何を差し置いてもこの貯食を優先させる子と、まずは自分の腹ごしらえをして、ある程度満腹になってから貯食に走る子がいます。
    そして、母リスが貯食優先タイプだと、その子どもも同じ、貯食優先タイプになります。
    母リスが、腹ごしらえ優先タイプだと、その子どもも同じ、腹ごしらえ優先タイプです。
    嗜好もしかり。
    母リスがクルミ大好きならば、その子どももクルミ大好きになります。
    最初のうちは、ハシバミなどに目もくれません。
    反対に、母リスがハシバミ大好きならば、その子どもも、まずはハシバミからかじりはじめます。
    そうやって何から何まで母親から学びとって、子リスは独り立ちしてゆくのです。
    母親のすることはすべて受け入れて……。
    子リスにとって、母親は絶対的存在なのです。
    母親も、子リスが独り立ちして生活できるようになるまで、死に物狂いでその子のことを守ります。
    いつだったか、カラスを目の前に、子リスの肩をガシッと抱きかかえて猛然と立ち向かおうとしている母リスの写真を見たことがありますが、母リスは子どもを守るためならば、カラスだけでなく、ヘビにだって向かってゆくといいます。
    クマだって、「雄グマの子殺し」に対して母グマは命がけで向かってゆくそうです。
    種の保存のためだけとは思えないほど、そこには母と子の強い絆を感じます。
    ひょっとして、いまどきの人間の親子以上に強い絆かもしれません。

    野生の動物たちは、群れで生活する種族以外は、親離れをしたら天涯孤独。
    すべて何もかも自分の力で生きてゆかねばなりません。
    甘える相手はどこにもいません。助けてくれるものもどこにもいません。
    同じ種族でさえライバルになります。
    そのために、母親はそれこそ必死になって子育てをするのです。
    ひとりになっても強く逞しく生きてゆくんですよ、
    あなたもいずれはちゃんと立派な親になるんですよ、と、
    思っているのかどうかはわかりませんが……。
    そしてすべてを教えこんだときに別離がやってきます。
    どんな気持ちで母リスは子リスを見送るのだろう。
    子リスはどんな気持ちで母リスの元を去るのだろう。
    そんなことを思うと同時に、
    自然界の厳しい理に逆らうことなく、
    文句ひとついうこともなく、
    まっすぐに生きている彼らから、人間は学ぶことがたくさんあるのではないか、などと考える今日この頃です。

  7. 07. 本当の省エネとは。。。

    毎日暑さと闘っておられる方々には大変に申し訳ないのですが、この森は本当に涼しくて、「猛暑」や「夏バテ」という言葉を目にしても、正直いってピンときません。
    カンカンに日差しが照りつけている日中でも、
    ゲートをくぐり、木立のない道から、鬱蒼とした森の中に入ったとたんに、空気がひんやりとしてきます。
    窓を開けると、森を渡る風が家の中を通り抜けていきます。
    もちろんエアコンは不要。
    扇風機も窓を閉める夜間につけるだけ。
    森はナチュラル・エアコン。
    自然の恵みに感謝です。

    昨夜、「Kevin’s Bar」*でお隣同士になった方が、
    「日本はいつの間にか、家屋を建てるのに、南側に窓をつけるようになってしまった。
    だから夏は暑く、エアコンをガンガンにつけなければ住めなくなっている」
    とおっしゃっていました。
    彼は、以前、日本の大手ハウスメーカーに勤めておられたとのこと。

    そういえば、「徒然草」にも、
    「家の造りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑きころわろき住居は、たへがたき事なり」
    とあります。
    これを読み返してみると、なるほどな、と思います。

    高温多湿の日本での暮らし。
    昔のひとは、庭や周囲の森もすべて暮らしの中の一部と考えて家づくりを行っていました。
    光と風を取り込むために。
    最近では、北側の窓はほとんどつけないか、つけても、ちょっとした明り採り程度の小さいもの。
    でも昔のひとの家は北側にも大きな窓がついていました。
    風を通すためです。

    太陽の光は強烈です。
    ことに夏の太陽光は、車のボンネットで卵が焼ける、といわれるくらいの熱量をもっています。
    この熱量をいつ採り入れるべきなのか。
    昔のひとはそれもよく知っていました。

    こうやって考えてみると、
    省エネの原点は、季節ごとに変化する地の利をうまく生かした家づくりにあるのかもしれません。

    森の力は絶大です。
    軽井沢には「軽井沢町景観育成基準ガイドライン」というものがあって、家を建てるときに伐採した木の数だけ植えるように、という規定が記載されています。
    でもその植生だって、針葉樹ばかりだと、冬も葉が落ちなくて日も当たらず、一年中湿度が高くて暗い土地になります。
    いろいろな広葉樹を植えると、夏はひんやりと涼しくて、
    冬は太陽の光があふれる明るい土地になります。

    「木なんかなくていい。
    一年中明るければいい。
    それで夏暑ければエアコンがあるではないか」
    そんな考え方は、自分勝手で傲慢な人間のしるし。

    自然エネルギーの活用と、
    自然そのものの力を利用した生活。
    それこそ、昔のひとの知恵の集大成かもしれません。

    さあ、暑い夏ともそろそろお別れです。
    わが森の樹木たちも色づきはじめました。
    秋はもうすぐそこまでやってきているようです。

    * 「Kevin’s Bar」: 軽井沢本通り沿いにある、ワンコインのワインバー。

  8. 08. 野生のいのち

     毎日、我がKazusaの森にやってくるリスや野鳥たちを眺めていると、つくづく、野生のいのちは逞しいなあ、と感じる。
     彼らは必死に生きている。神から与えられた「子孫を遺す」という使命を果たすために、ただひたすらに、動いて食べて……を繰り返しながら、毎日、純粋に、生きている。

     リスや小鳥たちは、食物連鎖の底辺に生きている。周囲にいる生きものはすべて天敵といっていいくらいだ。その中で生き抜いていくには知恵が必要だが、その知恵を、彼らは親から学ぶ。巣立ちをして独立するまで、リスで2ヶ月、野鳥で1ヶ月半という短い期間に、彼らは生きていくためのすべての知恵と術(すべ)を親から学び取るのだ。何から何まで、警戒の仕方まで身に付ける。これはすごい。
     しかし、食物連鎖は残酷で、リスや小鳥に限らず、キツネやタヌキやイタチなど、我が森にやってくる動物たちを見ていると、彼らが常に周囲を警戒しながら生きているのがよくわかる。食べているときでさえ、周りを気にしている。

     食べることに関していうと、彼らは貪欲だ。彼らにとって、食べることは、即、生きることにつながるので、それももっともなことなのだが、こと、同類に対してそれが顕著に出るのには、ちょっと驚いた。
     ことに、野鳥の場合、たとえば、カワラヒワは他のカワラヒワが給餌台にやってくると猛然と追い払う。それに比して、そこに、シジュウカラなど、他の種類の鳥がやってきても、さほど気にしない。これは冬鳥のシメも同じだ。シメは同じシメがやってくると、翼を広げ、嘴を大きく開けて威嚇する。中には、そんなに多くの種を自分だけで食べきれるわけはないのに、給餌台を独り占めするものも多い。カワラヒワもシメも、群れで行動するというのに、どうもそれとこれとは話が違うらしい。
     リスも同じである。単独行動を好むリスは、繁殖期以外はほとんど一匹で走り回っている。猛禽類やヘビなどが天敵なのだろうが、見ていると、食事どきの一番の敵は同じリスなのではないかな、と思うときが多々ある。
     いずれも、たくさん食べて自分のDNAを残そうとする本能がそうさせているのだろうが、自分の身は自分だけで守るしかない彼らは、したたかである。鋭い野生の勘を持ち合わせて、敏捷でしかも過剰なほどの防御反応を示す。

     だが、森の中を自由に飛び交い、嬉々として走り回る彼らを見ていると、本当に気持ちがよさそうで、こちらまで胸がスウーっとして心地よくなってくる。
     ことにリスなどは、スルスルスルっと木に登ったかと思うと、もう次の瞬間には、枝から隣の木の枝にスイーっと空中を泳ぐようにして飛び移る。その光景を目で追っているうちに、わたしまで風を感じてしまう。
     彼らは、この森のことを隅から隅まで知っているのだろう。あそこの藪にはウサギの穴があって、あそこの崖の上にはキツネが住んでいて、あのくぼみには腐った株があって、あの大木には美味しいきのこが生えていて……、と、この森を毎日走り回っている彼らは、どこにどんなものがあるのか、どんな仲間が潜んでいるのか、いつどこでどんな実がなるのか、すべて「合点承知之介」なのだろう。そう、彼らこそがこの森の主なのである。
     天を仰ぐようにして聳え立っている樹木たちに守られ、育まれている彼らは、まさしく、この森の恩恵を受けるに値するいのちなのだ。長い年月をかけて、森をいっしょに作り上げてきた仲間たちなのだ。森に抱かれ、森に愛され、そして彼らもまた森を愛する、いや、森がなければ生きていけないいのちなのである。

     そんな彼らが、勝手知ったる森の中を自由奔放に駆け巡ったり飛び回ったりしている姿を見ていると、人間に飼われて久しい犬や猫が憐れに思えてくるのだから、不思議である。東京にいたころは、野生の動物たちは明日をも知れぬいのちを抱えて、かわいそうだなあ、と思っていたが、この軽井沢の森の中で暮らすようになって、それは人間の勝手な解釈であることがわかった。
     野生を押し殺されて、人間の都合のよいように作られてきた犬や猫は、それこそ、人間がいなくては生きていけない。人間のすることには何ら逆らうことなどできない。よい飼い主に出会えたものは無事に一生を全うすることができるが、無責任で自分勝手な人間に飼われたものは、虐待されたり捨てられたりして命を落とす。それでも彼らは文句ひとついえない。
     それに比べて野生の動物たちは、自己責任のもとに、さまざまな困難と闘いながらも、自力で生きている。もっとも、こうして森が豊かだ、という大前提があっての話であるが。

     いま目の前にいるKazusaの森のリスや野鳥たちは、それこそ彼らには彼らのさまざまな事情があるだろうに、言い訳や不平不満を口にすることもなければ、泣き言をいうこともない。ただひたすらにわき目もふらずに、そのいのちを燃焼させている。その健気で、潔い姿は感動的でさえある。
     あんな小さな体で一生懸命生きている彼らを目にするたびに、思うのだ。ああでもない、こうでもない、あのときこうだったから、ああだったから……、などといってられないなあ、と。人間であるわたしはもっともっと、粛々として頑張らねばなあ、と。

     彼らはこの森の先住民たちだ。そんな先住民たちに迷惑をかけないように、仲良く暮らしていくことができればいいなあ、と、そんなことを思う今日この頃である。

  9. 09. Kazusaの森のリスに出会えて

    我がKazusaの森のリスたちと出会ったのは、昨年の初冬のこと。
    そう、あれは、引っ越し騒動も一段落して、森の樹木が色づいた葉をすべてふるい落として裸木になった頃だった。

    ふっと窓ガラス越しにバルコニーを見やると、なんと、その真中に植わっている大きなクリの木の根元で、野鳥の落としていったヒマワリの種を1匹の小さなリスがカリカリっとかじっているではないか。いやはや、あのときのあの感動はいまでも忘れられない。

    何いってんだか、たかがリス1匹に……と、笑われるかもしれない。でも考えてもみてほしい。リスなんて、動物園にでもいかない限り、東京では目にすることなんてできないのだから。

    小さな身体にふわふわっとした大きな尻尾。ピンと立った、あの毛糸の三角帽子みたいな耳。黒いアーモンド型のつぶらな瞳。何をとってみてもすべてが愛らしくて、しばらく窓の内側から、なぜだか息をするのも忘れてその姿に見入ってしまった。
    敷地内に植わっているクリの木はどれも、根元に空っぽになったイガがいくつも転がっていたけれど、あれって、リスたちがクリの木の上で食事会をした痕跡だったのだ、とそのときにはじめて気がついた。だからこうして、このクリの木にやってきてくれたのだ。

    でももうクリの実は残っていない。
    そう思うといてもたってもいられなくなって、早速、クルミを買ってきてバルコニーのクリの木の根元に、数個置いてみた。
    そしたら、きた、きた。翌日も翌々日も、2匹のリスが入れ替わり立ち替わり、姿を現してくれたのだ。
    そんなリスの様子を毎朝、眉をハの字にさせて眺めながら、ふっと思った。
    このまま、リスにクルミを与えていいものだろうか……、と。
    野鳥への給餌も併せて、随分、それも真剣に、悩んだ。

    そういえば、「餌付け」と「給餌」とは違う、というようなことをどこかで誰かがいっていたような……。そこで、ちょっと調べてみた。
    日本野鳥の会などの自然保護団体の定義によると、「餌付け」は、野生動物を愛でたり馴らしたりするためにエサを与えることであり、「給餌」は、ハクチョウやタンチョウなどへの冬季給餌に代表されるように、冬など食料の少ない期間に限って、野生動物の生存を助けるためにエサを与えること、だそうな。

    多くの団体では、前者の「餌付け」は、人間の勝手で、自然の理や動物の身体の仕組みなどを理解せずに実施されることが多いために、生態系が破壊されることを懸念している、とも書かれている。また、いずれの場合も、行うならば、責任をもって、その動物の生息場所としてふさわしい環境づくりをする必要があるとのこと。

    たしかに、野生の動物たちは厳しい自然の中を生き抜いてこそ、その強いDNAを残していくことができる。
    でも……、軽井沢の冬の寒さは半端ではない。氷点下十数度は当たり前。雪が降ると、食料になるものなどどこにも見当たらなくなる。
    餌付けをしようとは思わないが、せめて、木の芽や木の実がなくなってしまう期間だけでも、給餌はしてやりたい。

    でもちょっと待てよ……。「ふさわしい環境づくり」、とな……。

    我がKazusaの森のリスたちは、これまでもずっとこのクリの実を食べにきていたわけだから、ここは彼らの生息地として十分にふさわしい環境であるということだ。クリの木だけでなく、コナラなども植わっているだろうし、それらの実の代わりにクルミが置いてあってもいいのではないか。もっとオニグルミやミズナラなどを植えてもいいし……。

    それに、である。
    軽井沢のこのリスたちは在来種のニホンリスだが、そのニホンリスそのものが、すでに生態系が破壊されていて個体数が激減しているという。九州や中国地方の一部では絶滅種に指定されているとか。原因は、開発による森林伐採や外来種のタイワンリスの「持ち込み→逃亡→個体数激増」によって生息地を奪われたため、というのだから、放っておけないではないか。人間が原因で壊れた環境は人間の手で元に戻さなくてはならない。

    以上の理由(というか、こじつけ、というか、正当化、というか……)により、そのまま給餌を続行するに至ったわけであるが、どう頑張ってみても、リスは勿論、野鳥たちまでもが、なつくどころか、近寄ってこようともしない。窓の内側から眺めているだけなのに、カーテンが動いたり、カーテン越しに影が見えたり、と、少しでも気配を感じると、サーッと逃げていってしまう。

    ――何もそんなに慌てて逃げなくても……。

    それこそ脱兎ならぬ脱栗鼠のごとくに、大慌てで逃げていく彼らの後ろ姿を見ながら、わたしはいつもガックリと肩を落とす。が、これが野生動物と人間との住み分け、ということなのだろう。
    それに、ここは観光地でもなければ、公園でもない。人間が極端に少ない森の中なのだ。こんなところで餌付けなどできはしない。

    昔、関東圏内のベッドタウンで、ニホンリスの森づくりが行われたことがあるとか。その話を聞き及んだわたしは、早速、本を取り寄せて読んでみて、驚いた。

    ニホンリスは音に非常に敏感で、大きな音がすると気絶する子もいるという。性格も非常に臆病で怖がりだ。そのニホンリスを富士山麓の樹海から何匹か捕獲してきて、「リスの森」の「開催日」とやらに公園に放すのだが、その際にパレードなるものを行ったりコンサートなどを行ったりして大騒ぎをしているのだ。それも、ケージからリスを公園に放すときに、大観衆がいっせいに「ワアー」っと大歓声を上げている。驚いたリスたちは、一目散に公園の樹林の中に逃げ込んでいったらしいが、大きな音にびっくりしてどこかにぶつかったのだろう。1匹のリスが鼻血を出して死んでいる。

    やがていろいろなマスコミに取り上げられて知名度もアップし、全国から視察団を迎えたり写真展を行ったりと、かなり派手に活動をしている。その結果、わざわざ遠方から、ペットとして飼っていたリスを放しにくる人が出てきたりして、ニホンリスの中に、ペット用のシマリスがまざりはじめ、生態系が壊れはじめる。ペット用のリスは、野生のリスほど敏捷ではないので、猫にねらわれやすく、いつの間にかリスの森に野良猫が溢れて、ニホンリスまでがその犠牲になっていく。もっとひどいことには、密猟者までが現れるという始末。

    その後、リスの姿が少しずつ消えていき、最後には、「開発」によってその公園からリスが1匹残らず消えてしまったそうだ。

    野生動物との共存共生は、静かにそっと、お互いがそこにいることが当たり前のように、行っていくものではないのだろうか。

    ま、よそさまのことはさておき、我がKazusaの森のリスたちは、永遠に手が届かないところにいる妖精たちだ。
    どんなにラブコールを送っても、彼らに届くことはない。いつまで経っても、わたしと彼らの距離は縮まらない。遠くからそっと見守るだけしかできない……。
    それでいい。
    いや、そうでなくてはならない。
    彼がらいつまでもこの森で元気に逞しく生きてくれさえすれば。
    ずっと、ずーっと愛しているから。

  10. 10. もうひとつの春の色

    春が近づくと、
    山がうっすらと赤く染まります。
    これを春紅葉と呼ぶそうです。

    その正体は、
    冬の間中、樹木の芽を守っていた芽鱗の色。
    徐々に赤味を増して、
    芽吹き間近になると最もその色が濃くなるとか。
    この時期、
    森の中の落葉樹の樹冠が
    ぼおっと赤く煙ったように見えるのもそのせいです。

    春の色、と聞いて思い描く情景は、
    何をさておいても満開の桜でしょうか。
    山村暮鳥の「風景」という詩で詠っているような菜の花畑も
    春ならではの絵です。
    レンゲやスミレで覆われた林床も、
    パンジーやムスカリの寄せ植えが彩る窓辺も、
    どれもが優しい春の主役たちです。

    でも……、
    昨年の秋に、ここ軽井沢の森の中に移り住んで、
    厳寒の冬を越し、
    はじめての芽吹きの時期を迎えて、
    わたしは、もうひとつの春の色を知りました。
    それは、芽生えの頃の森の色です。

    この頃になると、
    森の中の樹木たちは、
    深い冬眠から目覚めて、
    急激に地下から水を吸いあげます。
    早く、早く、と、
    樹木たちは競い合うようにして、
    枝先へ樹液を送り届けようとします。
    その鼓動は大気を震わせて、
    じわじわと森全体を春へといざなってゆくのです。

    それはまた同時に、
    刻々と移り変わってゆく色となって、
    森を染めあげてゆきます。
    芽吹き前の芽鱗の赤、
    芽吹き直後の萌葱色、
    アブラチャンやサンシュの黄色、
    そして常緑樹の濃い緑、淡い黄緑……。
    これらが微妙にその色合いを変化させながら、
    重なり合い
    融け込み合って、
    樹林を縫いながら
    やがて霞みとなって広がってゆくのです。

    こうして、
    いままで単調な色に彩られていた森が、
    うっすらとニュアンスのある、
    それこそ名もない
    不思議な色合いで染められてゆく様を見ていると、
    「*スプリングエフェメラル」という言葉は、
    野の花や蝶だけでなく、
    この早春の時期に森が見せる、
    一瞬の色の移ろいも表わしているのかもしれない、
    などと思えてくるのです。

    目を凝らして見ているうちに、
    森のそこかしこに、
    あの樹木の陰に、
    あの小屋の裏手に、
    ほんのりと色のついたオーガンジーのヴェールを纏って
    森の妖精たちが隠れているような、
    そんな気がしてくるのです。
    それほどにもこの時期の森の色は、
    儚くて、美しくて、
    わたしの心を惹きつけてやまないのです。

    軽井沢の遅い春だからこそ、
    刹那の一時いっときに繰り広げられる
    この自然の営みを
    しずく一滴たりともこぼさずに愛でていたい。
    そう思いながら、今日もわたしは、
    森の中で時間を紡いでゆくのです。

     

    *スプリングエフェメラル(春の儚い命):早春の落葉樹の開葉前に姿を現し、落葉樹の葉の展開が終わる晩春には姿を隠してしまう植物や動物のことをいう。(goo辞書より)

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